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军人敕谕

1882年日本明治天皇颁布的训令

  • 中文名:军人敕谕
  • 来自:明治天皇颁布的对军人的训令
  • 地点:日本
  • 时间:1882年
  • 军人敕谕介绍
    军人敕谕是日本在1882年由明治天皇颁布的对军人的训令。山县有朋一手打造了明治日本皇军,除了征兵制、成立参谋本部、武官现役制之外,他最大的“成绩”之一,就是亲自操纵制定了《军人敕谕》。从1881年制定到1945年投降,山县有朋操纵天皇颁布的《军人敕谕》,轻轻松松影响日本陆军60多年,最终葬送了日本。它如困魔咒一般,把日军从一个人,变成一个失去个体意识的行尸走肉、杀人机器。这不是美国科幻电影,而是日本历史事实。[1]

    原文

    陆海军军人に赐はりたる勅谕(军人勅谕)

    我国の军队は世々天皇の统率し给ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中国のまつろはぬものともを讨ち平け给ひ高御座に即かせられて天下しろしめし给ひしより二千五百有馀年を经ぬ此间世の样の移り换るに随ひて兵制の沿革も亦屡なりき古は天皇躬つから军队を率ゐ给ふ御制にて时ありては皇后皇太子の代らせ给ふこともありつれと大凡兵权を臣下に委ね给ふことはなかりき中世に至りて文武の制度皆唐国风に效はせ给ひ六衞府を置き左右马寮を建て防人なと设けられしかは兵制は整ひたれとも打续ける升平に狃れて朝廷の政务も渐文弱に流れけれは兵农おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に变り遂に武士となり兵马の权は一向に其武士ともの栋梁たる者に归し世の乱と共に政治の大权も亦其手に落ち凡七百年の间武家の政治とはなりぬ世の样の移り换りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我国体に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅间しき次第なりき降りて弘化嘉永の顷より徳川の幕府其政衰へ剩外国の事とも起りて其侮をも受けぬへき势に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟を恼し给ひしこそ忝くも又惶けれ然るに朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大将军其政权を返上し大名小名其版籍を奉还し年を经すして海内一统の世となり古の制度に复しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を辅翼せる功绩なり歴世祖宗の专苍生を怜み给ひし御遗泽なりといへとも并我臣民の其心に顺逆の理を辨へ大义の重きを知れるか故にこそあれされは此时に於て兵制を更め我国の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陆海军の制をは今の样に建定めぬ夫兵马の大权は朕か统ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大纲は朕亲之を揽り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孙々に至るまて笃く斯旨を传へ天子は文武の大权を掌握するの义を存して再中世以降の如き失体なからんことを望むなり朕は汝等军人の大元帅なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を头首と仰きてそ其亲は特に深かるへき朕か国家を保护して上天の惠に应し祖宗の恩に报いまゐらする事を得るも得さるも汝等军人か其职を尽すと尽さゝるとに由るそかし我国の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其忧を共にせよ我武维扬りて其荣を耀さは朕汝等と其誉を偕にすへし汝等皆其职を守り朕と一心になりて力を国家の保护に尽さは我国の苍生は永く太平の福を受け我国の威烈は大に世界の光华ともなりぬへし朕斯も深く汝等军人に望むなれは犹训谕すへき事こそあれいてや之を左に述へむ

    一 军人は忠节を尽すを本分とすへし凡生を我国に禀くるもの谁かは国に报ゆるの心なかるへき况して军人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす军人にして报国の心坚固ならさるは如何程技艺に熟し学术に长するも犹偶人にひとしかるへし其队伍も整ひ节制も正くとも忠节を存せさる军队は事に临みて乌合の众に同かるへし抑国家を保护し国权を维持するは兵力に在れは兵力の消长は是国运の盛衰なることを辨へ世论に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠节を守り义は山岳よりも重く死は鸿毛よりも轻しと觉悟せよ其操を破りて不觉を取り汚名を受くるなかれ

    一 军人は礼仪を正くすへし凡军人には上元帅より下一卒に至るまて其间に官职の阶级ありて统属するのみならす同列同级とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服从すへきものそ下级のものは上官の命を承ること实は直に朕か命を承る义なりと心得よ己か隷属する所にあらすとも上级の者は勿论停年の己より旧きものに对しては总へて敬礼を尽すへし又上级の者は下级のものに向ひ聊も轻侮骄傲の振舞あるへからす公务の为に威严を主とする时は格别なれとも其外は务めて恳に取扱ひ慈爱を专一と心挂け上下一致して王事に勤劳せよ若军人たるものにして礼仪を紊り上を敬はす下を惠ますして一致の和谐を失ひたらんには啻に军队の蠧毒たるのみかは国家の为にもゆるし难き罪人なるへし

    一 军人は武勇を尚ふへし夫武勇は我国にては古よりいとも贵へる所なれは我国の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし况して军人は战に临み敌に当るの职なれは片时も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血气にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは谓ひ难し军人たらむものは常に能く义理を辨へ能く胆力を练り思虑を殚して事を谋るへし小敌たりとも侮らす大敌たりとも惧れす己か武职を尽さむこそ诚の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし诸人の爱敬を得むと心挂けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ

    一 军人は信义を重んすへし凡信义を守ること常の道にはあれとわきて军人は信义なくては一日も队伍の中に交りてあらんこと难かるへし信とは己か言を践行ひ义とは己か分を尽すをいふなりされは信义を尽さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを审に思考すへし胧气なる事を假初に诺ひてよしなき关系を结ひ後に至りて信义を立てんとすれは进退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其诠なし始に能々事の顺逆を辨へ理非を考へ其言は所诠践むへからすと知り其义はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小节の信义を立てんとて大纲の顺逆を误り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信义を守りあたら英雄豪杰ともか祸に遭ひ身を灭し屍の上の汚名を後世まて遗せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき

    一 军人は质素を旨とすへし凡质素を旨とせされは文弱に流れ轻薄に趋り骄奢华靡の风を好み遂には贪汚に陷りて志も无下に贱くなり节操も武勇も其甲斐なく世人に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此风一たひ军人の间に起りては彼の传染病の如く蔓延し士风も兵气も顿に衰へぬへきこと明なり朕深く之を惧れて曩に免黜条例を施行し畧此事を诫め置きつれと犹も其悪习の出んことを忧ひて心安からねは故に又之を训ふるそかし汝等军人ゆめ此训诫を等闲にな思ひそ

    右の五ヶ条は军人たらんもの暂も忽にすへからすさて之を行はんには一の诚心こそ大切なれ抑此五ヶ条は我军人の精神にして一の诚心は又五ヶ条の精神なり心诚ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装饰にて何の用にかは立つへき心たに诚あれは何事も成るものそかし况してや此五ヶ条は天地の公道人伦の常经なり行ひ易く守り易し汝等军人能く朕か训に遵ひて此道を守り行ひ国に报ゆるの务を尽さは日本国の苍生擧りて之を悦ひなん朕一人の怿のみならんや

    明治十五年一月四日

    御名

    中文对照

    军人敕谕

    我国军队世为天皇所亲御。自昔神武天皇亲率大伴物部之兵。以平中国(指神话中的“苇原中国”)。而卽帝位。统治天下以来。凡二千五百有余年矣。其间因时代之变迁。而兵制亦屡有改革。古制军队为天皇之所亲御。有时虽以皇后或太子代之。然未有以兵权委诸臣下之例。至於中世。文武制度皆仿诸中土。而有六卫府左右马寮防人等之设。兵制渐臻完备。惟以国内习於升平。政务流於文弱。兵农乃分而为二。古之徵兵者消灭於无形。转而为壮兵。以至於武士兴焉。其后兵马之权。遂归於武士首领之手。迨及世乱之时。政权亦复归其掌中。前后七百年间。遂成为武家之政治矣。时之所趋夫既如斯。固非人力所可挽回。惟以有违我国之国体。有背祖先之制度。殊堪浩叹。降至弘化嘉永之顷。德川幕府政治日衰。同时又值外邦多事之秋。外侮之来殆有迫於眉睫之势。是以皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇日夜忧虑。不遑甯处。朕冲年践祚。征夷大将军归还其政权。奉上其版籍。不经年而海内一统。恢复古制矣。虽为列祖列宗慜念苍生之遗泽。然非我文武忠臣辅佐朕躬。全国臣民能辨顺逆。曷克臻此。是以际此之时。卽思改更兵制。以光我国。遂於十五年之间。规定今日陆海军之制度。兵马大权。由朕亲统。所司之事委诸臣下。然其大纲仍归朕总揽。不可委之於臣下。后世子孙须善体斯旨。保存天子掌握文武大权之义。勿复蹈中世以降之覆辄。是则朕所深望者也。朕既为汝辈军人之大元帅。故卽倚汝辈为股肱。汝等亦当仰朕为元首。效其亲爱。朕之能否保卫国家。上应天心。以报祖宗之殊恩。全视汝辈军人之能否克尽其职。我国威之不振。汝辈当与朕共其忧。我武惟扬光耀四海。汝辈亦当与朕共其荣。汝辈各尽其职。与朕一心。竭力卫国。则我国苍生将享太平之福。吾国之威。亦可光耀於世矣。朕之深望於汝辈军人也如斯,故犹有训谕五条述之如左。

    一、军人当以尽忠尽节为本分。夫既享生於我国,其谁复无报国之心。而况於为军人者。苟此心之不固。则何复能用。军人报国之心既未能坚固。则虽技艺娴熟。学术良优。亦犹木偶已耳。军队之队伍虽整。节制虽严。然非有忠节之心。则亦等於乌合之众。夫保护国家。维持国权。既惟兵力是赖。则当明兵力之消长。既为国运盛衰之所系。故当毋为世论所惑。不为政治所拘。惟以守己本分之忠节为主。须知义有重於泰山。死有轻於鸿毛。慎勿丧失节操。而徒受无耻之汚名可也。

    一、军人须以礼仪为重。凡为军人者。上自元帅。下至兵卒。期间自有官职阶级之分。卽同列同级之中。停年亦有新旧。其新任者自当服从于旧任者。须知下级者之承上命。实无异承朕命。纵非己所隶属。亦当视同一律。上级者固不待言。卽论停年较己为旧者。亦当尽礼表示敬意。又上级者对於下级者。亦不可有轻侮骄傲之举。除为公务必当威严外。其余务须恳切慈爱。上下一致。以勤王事。为军人者苟於礼仪有亏。而失敬上惠下一致之和谐。是不啻为军队之蠹毒。亦且为国家之罪人矣。

    一、军人当尚武勇。夫武勇为我国古之所重。凡我臣民自非武勇不可。况军人以临战杀敌为职志。又安可一时忘乎哉。然武勇有大勇小勇之分。拔剑而起。挺身而斗。是皆非谓武勇。为军人者。当善明义理。锻炼胆力。曲尽思虑以谋事。小敌不侮。大敌不惧。但求尽己之武职。此则所谓大勇者也。故尚武勇者。待人接物。常能温和。博得人类之敬爱。好勇无谋。动辄肆威。势必至招人之忌。而使人畏之如豺狼也。

    一、军人当以信义为重。守信重义本为人类之常道。为军人者苟无信义。卽难置身队伍之中。信者践吾言之谓。义者尽己责之意。欲求守信重义。必先审思事之能成与否。苟一旦冒眛轻诺。以致进退维谷。莫知所从。虽悔已无及矣。故於事之始也。当辨明顺逆。审思是非。以期其言可以实践。苟知其义之不可守。则当急流勇退。以免失信义背之讥。古者尝有守小节之信义。而大纲之顺逆。或惑於公道之是非者。此殊不可。英雄豪杰。每因重私情之信义。而遭杀身之祸。以致遗臭万年者。亦复不少。可不戒哉。

    一、军人应以质素为旨。盖不尚质素。则必流於文弱与轻薄。徒尚奢侈。则必陷於贪汚与无耻。遂至志气为之消沉。节操为之丧失。武勇亦为之化为乌有。而为世人所不齿。终其生不得享受人世之幸乐。其愚可谓甚矣。军人间苟有此风。则必如传染病之蔓延。士风兵气卽将随之而衰颓。朕尝以此为惧。故曾颁布免黜条例。以为此事之诫。然犹虑有此等恶习之复复生。故复为是之训诫。愿汝辈军人。毋以等闲视之。

    以上五条为军人不可须臾忽者也。必须诚心实行。盖此五条。卽为吾辈军人之精神。而诚心又为此五条之精神。苟不诚心。虽嘉言善行。亦为欺人之虚伪。心诚乃可成其事耳。况此五条。为天地之公道。人伦之常经。易行而且易守。愿汝辈军人善体朕意。谨守此道。以尽报国之忠。是此岂独日本全国苍生欢欣鼓舞。卽朕亦为之欣慰焉。

    明治十五年一月四日

    御名

    标志

    《军人敕谕》的颁布标志着以儒学理念为核心的传统武士道精神的新发展,为日本军国主义的发展奠定了广泛而坚实的思想基础。民俗学家柳田国男曾指出:"明治维新以后,过去只占日本人小数的武士阶级的生活方式成了日本全体国民的理想。""日本全体国民的武士化,涵盖了明治以后所有日本知识分子的生活方式。"《军人敕谕》的确具有象征的意义。敕谕的发起人山县有朋和起草者西周都具有深厚的儒学素养,陆军的缔造者山县有朋曾就学于松下村塾,深受吉田松阴思想的感染。西周被誉为"日本近代哲学之父",作为启蒙主义和自由主义思想家活跃一时,但其思想的根基是植于儒学的沃土中。早在1878年上半年他就在军中连续发表了著名的《兵家德行》的讲演,强调兵家德行除应具备一般的智勇兼备、忠诚仁爱之外,更重视军秩之制,官阶等级之差。为确保军中"忠良易直"之风尚而严格将其与当时社会上风行的"民权家风"、"状师家风"(用法律来保护自己的权利的风气)、"货殖家风"相峻别。同年10月,山县有朋发布了《军人训诫》,其思想精神都体现在后来的《军人敕谕》中。

    意义

    《军人敕谕》开宗明义,"我国军队世世代代为天皇所统率",此乃日本的"国体"。在强调天皇对军队的绝对统率权,宣布"朕是尔等军人的大元帅"的同时,也指出天皇与军人一心相连,荣(誉)辱(忧)与共,朕赖尔等为股肱,尔等仰朕为头首,其亲特深。"之后对军人精神提出五条标准,即"忠节"(军人以尽忠报国为本分,义重于山岳,死轻于鸿毛)、"礼仪"("须知下级奉上级之命,实为直接奉朕命之义。"《军人训诫》中规定:"为部下者,其长官所命,纵有不合情理之处,亦不可有失恭敬奉戴之节。")、"武勇"、"信义"、"质朴"。在结尾处将这五条标准归为一点,即是"诚心","心诚则无不成"。并推而广之,提而升之,说这五条标准是"天地之公道、人伦之常经",这样,"军人精神"便具有了"普遍的"、"永恒的"意义。

    参考资料

    [1] 控制日军的魔咒:《军人敕谕》诞生记_腾讯新闻 · 腾讯网[引用日期2020-08-31]

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